対立の哲学

対立こそ平和的である

5.時代

私たちの生きている現代とはどういう時代なのか。疲弊した近代。テロの世紀。帝国の時代。知識情報社会。管理社会。インターネットの時代な どなど。見る方向はいくらでもあるし、それについての認識や評価も多様である。物理的には同じ時代を生きていても、人によってその認識は大きく異なる。こ れは、現代ではなく歴史となった過去についてでも同じことだ。いまや、真理などという形而上学に合理性はない。これがポストモダンの切り拓いた地平である。すべては相対化された。文化相対主義。それは植民地解放の論理的な支えでもあったのだが、今やこの相対主義は、当初の思想が基礎としていた自由と民主主義という概念すらも特権的なものではないのだという理論に転用されている。それは正しい。特権性などどこにもないのだ。

ポストモダンは、モダンの基盤である「絶対性」を否定した。近代の中にある「抑圧」や「管理」を攻撃した。それは妥当であり意義のあることだ。しかし、近代が多くの問題を抱えているという事実と、近代の残した遺産を放棄するべきだという主張とは、まったく別の問題だ。自由、人権、民主主義の出自と、その現在における価値とを同列に扱う必要はない。これは、現代のリベラリストの一般的な認識である。

私たちはもはや真理や合理性などというものを求めてはいない。形而上学などというものは存在しない。そのような発想自体が宗教的なものだ。 宗教を否定しているのではなく、それは宗教の領域だと示しているだけだ。では、何を根拠に自由を主張しているのか。多数性に依存するのか、歴史的な優越性を主張するのか。そうではない。そのような根拠を示す必要などない。自らの確信を表明するだけで十分なのだ。経済学者のシュンペーターは次のように言った。「自己の確信の妥当性が相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」と。

近代には光も影もある。美点も欠点もある。しかし、改善できる余地は多分にあるのではないだろうか。欠点だけを見て、美点を切り捨てることは得策とは言えまい。まして、誰がその後の政治的展望を示せただろうか。

時代の認識においても、目指すべきものについても、あるいは価値についても、到底理解し得ない深い溝がいくつもあるだろう。統一などという 幻想を抱くことは明らかに間違っている。対話や、文化的科学的な進歩が相互理解を促進すると考えるのも幻想だ。事実は、対立が必然であるということだけで はなかろうか。

問題は、いかに理性的に、暴力や戦争といった惨事を、あるいは差別や貧困といった苦痛を回避しながら、対立をうまく継続させるのかという事でしかないように思われる。これこそが、現代の現実的な目標であり課題なのだ。

私たちの内面性は近代以降急速に進歩した。イー・フー・トゥアンの研究によると、近代において、内面性を示す語彙は膨大に増え、それらが語 られる機会も増えた。日常的な残忍さは大きく減少した。さらには、人類という同胞意識が生まれたのも近代以降のことだ。地球の裏側で飢餓に苦しむ人の事を 思って胸が痛むなどという心情も極めて現代的な感覚である。戦争は科学技術によって破壊的になったが、心が蝕まれたと考えるべき根拠は少ない。これは一つの希望だと思う。