対立の哲学

対立こそ平和的である

11.事例−2、対立未満

会社に就職して10年以上が過ぎた。30を過ぎたが、仕事に情熱を傾けるわけでもなく、特に趣味があるわけでもない。結婚もしていないし、交際している女性もいない。両親とは疎遠であり、学生時代から一人暮らしを続けている。それに不満があるわけではない。ただ漠然と、この人間関係の希薄さは異常なのではないのかと感じている。

会社に友達はいない。もちろん挨拶はするし、普通に会話はする。飲みに行くこともある。ただ、それらは儀礼的な形なのであって、それ以上で も以下でもない。そこには人間的な興味や関心はまったくない。会社の中に私的な人間関係を持ち込むことは良くないことだと考えているのだから、こうなるの は当然だろう。特に競争心もないし(競争心があるように演じてはいるが)、仲間意識もない(仲間意識があるように演じてはいるが)。

内的な心情を伴なう人間関係を求める気持ちが無いわけではない。しかし、どうすればそのような関係を築けるのかも分からないし、煩わしいこ とに巻き込まれたくないという気持ちもある。だいたい、人間として面白い人、興味の持てる人に出会わないのだ。それは、感受性の問題なのかもしれないし、 そもそも自分自身が面白い人間ではないと思っている。

対立は関係を前提としている。このように、関係そのものが存在しないなら、対立などあり得ないのではないだろうか。それは、対立が無いということで望ましい事なのだろうか。対立未満。これが、事例−2である。

世界的な傾向として、社会学では人間関係の希薄化が問題とされることが増えている。都市という現象の中で、取り残されてしまう人たちは少な くない。また、常に友人達といるような人でさえ、内的な意味での人間関係が存在していないという場合もあるだろう。より掘り起こせば、<内的な意味での人 間関係>がなぜ必要なのか、から問うこともできる。

この事を考える手順として、対立の反対側にある、人と人との良好な感情というものを考えてみたい。それはおそらく、尊敬や共感であり、友愛 や慈愛である。これらは純粋に、人と人、個人と個人の間で生まれ得る感情である。対立の反対物として、「仲間意識」をあげても良いのだが、これは小か大か はともかく、組織あるいは共同体を介在した感情なので、ここでは除外する。組織における対立は、次節以降で検討する予定だ。対立の哲学を標榜しながら、対 立の反対物を「良き物」と無条件に決め付けることに少し抵抗も感じるが、暫定的にそれらを「良き物」と仮定して話を続けよう。

尊敬とは、特定の価値観に照らしての評価であり、憧れや羨望を伴なう感情である。共感もまた、特定の価値観を共有できたことの喜びから生ま れる。ここで言う価値観は、言語的=ロゴス的なものだけを指すのではない。芸術的なものでも良いし、言葉では表現できないような価値観もあるだろう。むし ろ、ある種の「世界」と言った方がわかりやすいだろうか。そこに絆を見い出すのだ。

これに対し、友愛や慈愛という感情は、「発見する」という性質のものではない。それは、いつのまにか「芽生え」そして「育まれる」。例えが 悪いかもしれないが、人が犬を可愛がるときに価値観=世界を問うだろうか。すべての生命は等しく愛されるべきだ、などと言いたいのではない。可愛い犬もい れば、可愛くない犬も、危険な犬もいる。そこで、何を愛し、何を愛さないか、というのは人智を超えた問題である。脳科学がどれほど進歩しても、この謎が解 明できるとは到底思えないということだ。ましてや、「何を愛するべきだ」などという言説は、愛についての無思慮を自白したことにしかならない。

人と人との<内的な意味での人間関係>は、喜びの源泉であるとともに、対立の源泉でもある。そんな二分法的な言い方ではなく、ただ「混沌」 の源泉であると言った方が適切だろうか。言い換えれば、喜びも、悲しみも、怒りも、すべてはこの「混沌」の中にしかない。これは、生きるということの本質 的な部分だと言えないだろうか。であるならば、人間関係の不在は、人と人の対立という視点からは対立未満だが、その形は、<生>そのものと対立している姿 と言えよう。