対立の哲学

対立こそ平和的である

15.無関心

近代以降、人間は道徳的に大きく進化したという説がある。それは、人種や文化を越えて、別の地域や、地球の裏側にいる人達の非合理的な苦痛 にすら、許しがたいとする感情を持つようになったからだと言う。本当はそのような心情を持たない人も、それを公言することはしない。それは、恥ずかしいこ とであり、間違ったことであり、反知性的、反現代的なものと考えられているからだ。飢餓や反人道的な行為と、それによる苦痛を、同じ人間として認めること ができないというのは、現代人に共通する感覚となった。同じ人間としての関心の拡大、共感の拡大を根拠として、道徳的な進化という主張がなされるのであ る。

あるいは、成功哲学の多くが、人に対する誠実な関心を持つことを要請する。逆説的に言えば、人に対して関心を持てない人は成功しないということだ。ここでも、関心を持つことは奨励され、無関心は非難される。

注意すべきは、この二つの関心が異質であるという点だ。「道徳的な進化」とされる人類全体への関心は、つきつめると、道徳的であるべき社会 に対する関心であって、人に対する関心ではない。そこに、個人的な関心があったとしても、それは二義的なものでしかない。別に地球の裏側でなくても良い。 自分の属する地域社会であっても同じである。関心を寄せるのは社会のあり方であり、実際の個人に対して関心を寄せてはいないことが多いのである。

私たちの関心は大きく広がると同時に、その視線は個人から社会へと移行している。社会に対する関心が増す一方で、現実の世界での人間に対す る関心は希薄化している。社会は確実に細分化されている。ライフスタイル、趣味嗜好、専門領域は多様化し、人間関係も複数の特殊な集団内でのみ築かれて行 く。隣近所であっても、一つではなく複数のグループに分かれて行く。それが良いとか悪いということではない。社会に対する関心と個人に対する関心を切り離 し、使い分けている現代人の姿を把握しておくことが、個人と組織、あるいは個人と社会における対立の違いを考えるうえで必要になるのだ。

労働運動で服役したインテリ学生が、刑務所で労働者と同室になりながら、会話すらしなかったというエピソードがある。この学生が共鳴したの は思想であって、労働者では無かったのだ。同じように、人権には関心が高いが、人間そのものには関心が薄いという人も少なくない。というよりも、それが現 代の傾向のようにすら思える。もしかしたら、私も例外ではないのかもしれない。

あなたには、身近な存在で日常的に会話をしているものの、個人的にはまったく関心を持っていない人がいないだろうか。そして、それはなぜ か。共感の不在だろうか。利害の不在だろうか。それとも対立だろうか。対立は強い関心を生む場合もあれば、無関心を生む場合もある。そして、多くの場合、 無関心には危険が潜んでいる。成功哲学を支持するわけでも、成功を称賛するわけでもないはが、どのような場合でも、無関心に陥ることなく一定の関心を持つ ことは必要である。強い関心を持つ必要はない。必要最小限の関心で良いだろう。相手を理解できる程度に。