対立の哲学

対立こそ平和的である

1.怒り

楽しみにしていた遠足が雨で中止になったからといって天候に怒る人はいない。いるかもしれないが、それは圧倒的に少数だ。一体何に対して怒ればいいのか。自然か、地球か、神か、物理法則、あるいは日本海に張り出した高気圧に対して怒りをぶつけるのか。そんな人は見たことがない。こういう場合 の通常の感情は、悲しいとか残念に思う、落胆する、失望するなどだ。

道で野良犬に噛まれた場合、その犬に対して怒るだろうか。特別な状況を除いては怒らないのが普通だろう。怒るとすれば、そのような野良犬を放置した行政に対してだろうか。

一方、友人が待ち合わせの時間に遅れたり、約束を破ったような場合に怒る人というのは珍しくない。また、挨拶がなかった、中元をよこさな い、俺に相談がない、あの態度は何だ、といって本気で怒る人達もいる。なぜ怒るのか。それは、自らが常識であり当然であると考える行為を、他者が示さなかったからだ。自らが当然と考える行為。多くの場合、それは合理性の無い個人的なビリーフだ。私に言わせれば、そのような怒りは無知に基づくのであり、つ まらないことで怒ってばかりいる人は軽蔑されて当然なのである。そのような怒りは、自らの幼児性と想像力の欠如を表明しているだけのことだ。

しかし、怒って当然という場合もあるでしょう、と反論されるかもしれない。マナーの悪い奴が許せないという人もいる。むしろ誰も怒らないこ とが問題ではないですか、と。そうだろうか。怒ると叱るはまるで違う。怒るは感情に属するが、叱るは理性に属する。通常の大人ならば、そのような場合に生 まれる感情は怒りではなく、落胆か軽蔑か嫌悪、あるいは悲しみか憐れみか不快感ではなかろうか。より賢明な人であるならば、その程度の状況ではまるで感情 が動かないだろう。

人間の社会には文化規範がある。それを遵守するべきなのは言うまでもない。しかし、現在は文化も多様化している。一人の人が複数の文化に日 常的に接している。そこでは、当然のこととして、規範も使い分けられる。昔ながらの一つの文化に固執し、それを美学だと思っている人もいるが、お好きにど うぞとしか言いようがない。要は文化的な差異の認識が出来ていないだけで、スロライクゾーンが狭いだけの話だ。多文化の、めまぐるしく変化する時代であ る。そのような怒りはただ、差異を認識できないか、許容できないかのいずれかだ。(まあ、嫌悪感くらいなら妥当だろうが)この程度の怒りは論ずる対象にす らならない。とは言え、このレベルの怒りで殺人事件まで起こる世の中だから、注意は必要だろう。

怒りというからには、のどかな話ばかりするわけには行かない。親族を誰かに殺された場合、その犯人に向けられる怒りは当然のこととされている。戦争の犠牲になった場合の怒りというものもある。その怒りは憎悪と結びつき、復讐にまで発展するかもしれない。このような重大な犯罪に対する怒りとは正当なものなのだろうか。さらに、復讐まで正当化されるのだろうか。

この怒りの前提に、相手が同じ人間であるという認識があることは明白だ。同じ人間だから許せないのだ。この認識がなければ、それは怒りではなく敵意である。

怒りという感情を否定する理性優先の論理もある。しかし、私にはそう簡単に結論を出して良い問題だとは思えない。感情より理性を優先させな かればいけないのはなぜか。そして、それは常にそうあるべきだという例外のない原則なのか。ならば、人間にとって感情とは何なのか。感情があるからこそ 人間ではないのか。

最近では迅速な意思決定が賞賛される風潮にあるが、知の伝統として、重要な決定は遅ければ遅いほどよいという見解もある。ここでは結論を保留して次に進もう。