対立の哲学

対立こそ平和的である

3.格差

格差の拡大が社会問題として取り上げることが多くなった。各種の経済統計もそれを裏付けており、それを政府の責任として非難する人たちもいる。政府の政策に不満を持つ人たちがいる。それらの人たちの非難の鉾先は、政府や閣僚にとどまらない。市場原理主義や、資本主義一般にまで向けられたりする。

下流と自称する人たちに、「今の社会は、ほぼ機会平等です」とか、「パレート最適と言えます」などと説明しても納得は得られない。それどこ ろか、彼らの怒りを増すだけに終わる。そもそも、平等という概念は、自然権としての権利の平等のことだ。結果としての格差を認めない、あるいは私有財産制 そのものを否定するという人たちは圧倒的に少数派であり、彼らは夢想家とよばれ、一般的には相手にされない。

格差は何も経済的 なものだけではない。各種の能力、技術、知識、人脈、人望、人気、関心を持つ領域とその深さなどなど、格差は歴然として存在する。人は生まれて以降、差異 ないし個性を拡大する方向に成長して行く。私有財産の否定というのは、格差の一部を消そうとすることだ。それが、どれだけ多くの自由を失い、より悪い性質 の格差を増すだけのものであることを知らないというのは悲しい。人間は誰一人として同じではないという事実を前提にするのか、人間は皆おなじであるべきだ という理念を前提にするのか。スタート地点が異なれば、目指すべき方向も違う。このような場合、どこから対話をはじめればいいのだろう。

日本の現在(2006年)の問題は、経済学的にどのような格差が妥当なのかという議論ではない。現実の問題は「格差」という言葉の背後にある「貧困」である。格差の拡大が問題なのではなく、貧困と貧困一歩手前の層の増大が問題なのだ。いかにして貧困を減らすかという問題が、格差はどの程度が望ましいのか、という問題にすり替えられている。議論されなければならないのは、生存権レベルの問題だというのに。

原因は、正規雇用の減少と年功序列賃金制度の半崩壊である。雇用という労働形態そのものが問われる時代になったということだ。雇用は福祉の一部である。国が雇用の促進を画策し、完全雇用を目指すのは、それが福祉だからだ。経済的な合理性から言えば雇用されないであろう人にも、何とか働いてもらうことで生活してもらうというのが基本方針なのだ。しかし、経済環境の変化、産業構造の変化は、従来のこの考え方に大きな転換を迫っている。

「世界に目を向けると、1日3ドル以下で生活している人が何億人といます。世界の貧困に目を向けましょう。」と叫ぶ慈善家は多い。ただ、そのような世界と現在の日本を単純に比較するわけにはいかない。世界には、お金がなくても普通に生活し、生きて行ける社会もある。しかし、日本の場合はちがう。経済活動は全面的に貨幣に依存している。お金が無くなれば飢えて死ぬ。そういう社会だ。

文明が進歩すれば、必要とされる労働が減るのは自然なことだ。一昔前は労働時間の削減や、労働からの解放こそがスローガンではなかったか。 それが実現可能なものとして見えてきた時に、それを問題視するなど本末転倒だ。いまさら、労働というものを美化する必要もあるまい。まして、雇用という 「奴隷的労働形態」は、歴史的に見ればここ数百年の歴史しか持たない特殊な制度で ある。いずれ消滅すると考えても間違いではないだろう。そのような時代の変化を背景に現れたのが、「ベーシック・インカム論」ではなかろうか。つまり、すべての人に基本的な生活に必要なお金を配ることが政府の役割であるとする考え方である。政府が雇用を供給できないのであれば、生存権を平等に保証する義務 があると考えられるからだ。

格差の拡大を問題視する人たちの多くは、根本的な間違えを犯している。政府に平等を実現する能力がなければならないとする事が、まず間違え だ。そんな神の如き能力のある政府など、存在するはずがない。結果としての格差の縮小という目標を掲げるべきだというのも、正義ではなく、個人的な信念に 過ぎない。ましてや、資本主義が悪いなどという主張は論理的な大飛躍であり、論外だろう。真に主張すべきは、貧困の解消という点にしかないのではなかろうか。

厄介なのは、この問題を自らの政治的影響力のために利用しようとする人たちである。彼らは議論をすり替える。そのような非論理的な説が、今のマスメディアでは無批判に流通する。ここでも、「対立する精神」と「対立する技術」が求められている。安易な対立の回避が最悪の対立を生む。